有機化学反応のメカニズム
IRC (Intrinsic Reaction Coordinates) は量子化学の分野で反応のメカニズムを論じる際に必ず出てくる。IRCは反応の始原系から遷移状態そして反応生成物にいたる経路を特定する。それは,あたかも人間がこちらの村(反応物)から山向こうの村(生成物)まで峠(遷移状態)を歩いてゆっくりと越えていくことにたとえられる経路である。しかし,実際に熱エネルギーをもった状態においては, stationary pointsもその意味をもたないことがある[1]。
ここでは,電子移動(ET)と置換反応(SN2)の両方の反応がおこりうる系において,熱エネルギーをもつ場合には必ずしもIRCどおりには反応がすすまないことを明らかにした計算例を示す[2-4]。
この反応系に含まれるstationary pointsの相対的なポテンシャルエネルギー(kcal/mol)および構造を図1に示す。IRCは,SN2型の遷移状態(TS-1)を通って,SN2型の反応生成物に至る経路である。ET型の反応生成物とSN2型の反応生成物の間にはそれらをつなぐ遷移状態(TS-2)がある。
図1.反応の始原系,遷移状態,生成系の構造
図2.反応系のポテンシャルエネルギーマップ
(黒丸:TS-1,赤丸:TS-2)
図3は,図2のポテンシャルエネルギーマップを二次元にして,そのマップ上にIRCの経路を重ねて描いたものである。
図3.IRCの経路(黒丸:TS-1)
実際に298Kにおいて,TS-1を初期構造としてdirect ab initio MD計算を走らせた結果得られたトラジェクトリーを図4に示す。熱エネルギーがある場合にはSN2の領域に進む場合だけでなく,ET生成物の領域に進む場合もあることがわかる。また,一度SN2領域にすすんだものも,その後第2の反応がおこってET領域に変化する場合も見出された。
図4.298Kにおけるトラジェクトリー
(桃丸:反応の原系,青丸:SN2型生成物,緑丸:ET型生成物,黒丸:SN2型遷移状態(TS-1),赤丸:TS-2)
この反応系は,ET/SN2境界領域反応とよばれる。境界領域反応では,反応生成物の分布が温度によってどのように変わるかによって反応機構が議論されることが多い。通常,二つ以上の生成物がある場合には,それぞれに別の遷移状態が存在すると考えられる。温度が高い場合に増加する生成物は,経由する遷移状態がそうでないものに比べて高い,と判断される。しかし,ここでの計算例は,そのような一般的解釈は必ずしも正しくないことを示している。遷移状態が一つでも反応生成物が二つ以上ありうる。しかも,その後の反応がおこりうるので生成物分布の温度依存は複雑になる。
生体高分子の反応を扱う際には,このような知見が大事になる。ここで示した例は,絶対零度における描像を基底関数を大きくし電子相関を入れることによって得ることが,必ずしも実際の反応メカニズムを得ることにはつながらないことを示している。
また,図4から,反応は必ずしも遷移状態そのものを通って進行するのではないこともわかる。ここでのMD計算はTS-1を初期構造としてスタートさせたため,すべてのトラジェクトリーは必ずTS-1を通る。しかし,TS-2の通過に相当する反応は,必ずしもTS-2そのものを通っていない。この領域ではC1?Clの長さは反応の本質ではないことを示している。
原著論文:
[1] Salai Cheettu Ammal, Hiroshi Yamataka, Misako Aida and Michel Dupuis, " Dynamics-Driven Reaction Pathway in an Intrameolecular Rearrangement," Science, 299, 1555-1557 (2003).
[2] Hiroshi Yamataka, Misako Aida and Michel Dupuis, "One transition state leading to two product states: ab initio MD simulations of the reaction of formaldehyde radical anion and methyl chloride," Chemical Physics Letters, 300, 583-587 (1999).
[3] Hiroshi Yamataka, Misako Aida and Michel Dupuis, "Analysis of borderline substitution/electron-transfer pathways from direct ab initio MD simulations," Chemical Physics Letters, 353, 310-316 (2002).
[4] Hiroshi Yamataka, Misako Aida and Michel Dupuis, "Ab initio molecular dynamics studies on substitution vs. electron transfer reactions of substituted ketyl radical anions with chloroalkanes: How do the two products form in a borderline mechanism?" Journal of Physical Organic Chemistry, 16, 475-483 (2003).