水クラスター
水クラスターにおける水素結合パターンの種類を知るということは自明のことではない。水の数が少ない場合でも,すべての可能性を網羅したかどうかは,目で見ただけではわからない。また,その水素結合パターンの違いによって,そのクラスターの安定性は変わる。
1-1.水クラスターの数え上げ
化学構造式は,分子を構成する原子を,結合(棒)で結んだものである。原子を点とすれば,構造式は一種のグラフとみなすことができる。とくに飽和炭化水素のすべての可能な構造の数え上げは化学の分野では広く研究されてきた。構造式をグラフとみなすことによって,分子構造のトポロジーを表現することができる。また,グラフは隣接行列と1対1の対応がある。(図1参照)
図1.シクロプロパンの分子構造とそれと同等なグラフと隣接行列
水クラスターは,水分子間の水素結合によって形成されている。水素結合の向きを,水素原子から酸素原子への矢印として表現することができる。このようなグラフを「有向グラフ」という。有向グラフは,結合に方向性があるため,それと同等な行列は非対称行列である。これを「水素結合行列」とよぶことにする。(図2参照)
図2.水トリマーの構造とそれと同等な有向グラフと水素結合行列
水クラスターである条件を付け加えて水素結合行列を数え上げることによって,すべてのトポロジー的に区別できる水クラスターを数え上げることができる (1)。
1-2.水トリマー
頂点の数が3の場合,グラフの数は2個(リニアかサイクリックか,の2種)であるが,有向グラフの数は5個である。そのすべての組み合わせを図3に示す。すなわち,トポロジー的に区別できる水のトリマーの構造は5種類である。しかし,非経験的分子軌道法計算の結果,これらのうちで,ポテンシャル曲面上のエネルギー極小の構造に相当するものは,a〜cの3種だけであることがわかった。
図3.頂点が3個の有向グラフの種類。
水トリマーの場合は,リニアなbやcよりサイクリックなaの方がかなり安定である。その安定性と対応して,リニアよりサイクリックの方が,水素結合が形成されている領域の電子密度が大きいことがわかる (2)。
図4.水トリマーの電子密度図(0.02electrons/au3の表面)と相対エネルギー(kcal/mol)。
使用した計算レベルはHF/6-31G*。
1-3.水テトラマー
頂点の数が4個の場合,グラフの数は6個だが有向グラフの数は22個である。そのすべての組み合わせを図4に示す。非経験的分子軌道法計算の結果,これらのうちで,ポテンシャル曲面上のエネルギー極小の構造に相当するものは,d〜hの5種だけであることがわかった。
図5.頂点が4個の有向グラフの種類。
図6.水テトラマーの電子密度図(0.02electrons/au3の表面)と相対エネルギー(kcal/mol)。
使用した計算レベルはHF/6-31G*。
テトラマーに含まれる水素結合の本数は,hのパターンが最も多い。しかしエネルギー的に最も安定なのはdであることがわかった。すなわち,水素結合の本数だけでなく,水素結合のパターンがその安定性に大きな影響をおよぼす。とくに,dとeは,水素結合の本数やサイクリックである点は同じであるが,その安定性が大きく異なることは注目に価する。電子密度図にも大きな違いが現れている。水素結合パターンeでは,それぞれの水分子は孤立状態といってもよいほど水素結合に相当する領域の電子密度は小さい。それに対して,水素結合パターンdでは水素結合が形成されている領域の電子密度が非常に大きい。
原著論文:
(1) Toshiko Miyake and Misako Aida, "Enumeration of topology-distinct structures of hydrogen bonded water clusters," Chemical Physics Letters, 363, 106-110 (2002).
(2) Toshiko Miyake and Misako Aida, "Hydrogen Bonding Patterns in Water Clusters: Trimer, Tetramer and Pentamer," Internet Electronic Journal of Molecular Design, 2, 24-32 (2003).
http://www.biochempress.com